5.してはいけないこと何もない
- 横浜市の本間京子さん(62)
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ラムゼイ・ハント症候群と診断されて半年ほどたった2009年春、横浜市の本間京子さん(62)は回復を感じ始めた。まひした顔の左半分が少しずつ動くようになった。
5月、夫の実さん(66)、娘の祐子さん(37)と箱根に行った。病気になって初めての旅行。不安はあったが、美術館をめぐり、温泉でのんびりした。それが自信となって、秋には福島まで出かけ、紅葉を楽しんだ。
季節ごとに、自宅からほど近い鎌倉を夫婦で訪ね、散策した。喫茶店で休憩し、コーヒーを飲む。少しでも気分転換ができるようにという夫の気遣いを感じた。
体力が回復し、顔も徐々に動くようになっていった。
今年1月には結婚40年にグアム旅行を祐子さんがプレゼントしてくれた。同窓会にも出席した。京子さんが積極的になったのが、実さんはうれしかった。何より表情が明るい。
主治医の稲葉鋭医師(51)が昨夏、市内で開業して、いまはそのクリニックに通う。
3月。2年前の秋に病気がわかった時に40点中4点しかなかった顔の動きが、30点まで回復した。ウインクができる、口笛を吹くみたいに口をすぼめられる。
聴力検査では左に軽い難聴があったが、右は正常だった。
「このくらいの聞こえづらさは日常生活ではまったく問題ありません。右の聴力を大切にしていきましょう」。稲葉さんが言った。
「先生、習い事を再開してもいいですか」
京子さんは恐る恐る聞いた。発症前、クラシックバレエを習っていた。
トーシューズは幼いころからの夢だった。でも、まだめまいやふらつきがあるので、自信がなかった。
「してはいけないことは、何もありませんよ」。
稲葉さんは笑顔で答えた。「姿勢も良くなるし、いいリハビリになるでしょう。
ただ、転倒には気をつけて」と付け加えた。
まだ食べる時に口に不自由がある。ものをかむと、涙が出る。耳鳴りも続いている。けれど、できるだけ気にしないように努める。
「ストレスが一番いけないから」
朝食をつくるのは実さんだ。パンとコーヒー、サラダ、果物。台所に立ったこともなかった夫が、家事をこなし、ずっと支えてくれた。どんなに感謝しても足りない。1年半かかって、ここまで良くなった。これからも少しずつ頑張っていこう、と思う。
4月初め。食卓に、京子さんが焼いたパウンドケーキが加わった。
(五十嵐道子)
(2010年5月1日付 朝日新聞朝刊から)
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